冷たい感触を握りしめて、少し躊躇った後、それを差し込む。
捻れば、カチャリと音を鳴らして、難なくその扉は開いた。
足を踏み入れるが聞きたかった声はなく、静けさが広がるだけだ。
「?」
ダイニングへ入り、名を呼ぶが返事はない。
メールへの返事もなかった為、不在かとも思っていたが、靴はあった。
だが、室内の電気はついておらず、視線を巡らせれば、カーテンが緩くはためいている。
一瞬何かあったかとひやりとするが、ベランダに思い人が見えて、ほっと息を吐いた。
しかし、動く気配のないに不思議に思ってそちらに向かえば、普段は置いていないチェアをベランダに出し、それに膝を抱えるように座って、小さく寝息をたてていた。
こちらもわざわざ窓際に動かされた小さなテーブルの上に、水滴を纏ったグラス。
ふわりと香るそれはアルコールのようだ。
「一人で月見酒か…」
まん丸な月を見上げて、呆れたように呟いた降谷は、何事もなかった事に安堵の溜め息を吐いた。
だが、いくらまだ本格的な秋ではないと言え、夜は冷える。
アルコールを摂取して、こんな所でうたた寝をすれば、風邪を引くだろう。
手を伸ばしての頬にそっと触れた降谷は、その感触に眉をひそめた。
月明かりにいつもより白く見える頬を両手で包むとひんやりとしていて、長時間ベランダにいた事が知れる。
「ん…」
小さく身動いだが起きる様子のないに小さく息を吐いて、降谷はを抱き上げた。
室内に連れ戻し、行儀が悪いとわかりつつ、足で窓を閉める。
「…うん?ふる、やさん…?」
「起きたか」
微かな声が聞こえて見下ろせば、うっすらと開いた瞳がとろんとしたままこちらを見ていた。
冷えた体にじんわりと伝わる温かさが心地よかったのか、肩口にすりっと頭がすり寄せられる。
「っ…!」
普段はあまり自分からそう言う事をしないだけに、稀に見せる仕草の破壊力は絶大だった。
ただ、寝ぼけているらしいは再び寝息をたて出す。
を抱えたまま立ち尽くしていた降谷は、あぁもう、と悔しげに呻くとそのままソファに座り、体温を分けるようにぎゅうと抱きしめた。
しばらくそうやっていた降谷は、温まってきたの頬を確かめるように撫でる。
すやすやと眠るその無防備な姿に少々不安にもなるが、自分を警戒していないと言う事実に口元が緩んだ。
(…さすがに寝てるのに手を出したら怒るよな)
柔らかな肢体を足の間に座らせたまま、よぎる考えに頭をかく。
折角、触れる事にも慣れ出したものが、最初からやり直しになるのはつらい。
しかし、正直な所、生殺しになりつつある状況に、理性がある内にと降谷は動き出した。
ベッドへを寝かせ、布団をかけると、その額や目蓋にキスを落とす。
少し考えた後、悪戯っぽく口角を上げて、もう一度身を屈めた。
翌朝、目を覚ましたは、一瞬の間の後、ガバリと起き上がる。
きょろりと辺りを見回して現状を確認し、額に手を当てた。
「ん?あれ?え??」
記憶を手繰り寄せ、昨夜の事を思い出そうとするが、あまりに綺麗な月にベランダに出て久々にアルコールを口にしたところで曖昧になる。
まさか、とベッドのサイドテーブルにあるはずのスマホへ視線をやれば、半分に折られたメモが上に置いてあった。
恐る恐るそれを手に取り、中を確認すれば、見慣れた文字が並んでいる。
[ご馳走さま]
忙しい合間にわざわざ寄ったであろう降谷に、申し訳ない気持ちでいっぱいになったは頭を抱える。
ピピッと鳴り出したスマホのアラームを止めれば、メールの着信通知が見えた。
開くと降谷から家に寄ると言う連絡メールで、それは自分がお月見を楽しみだした後の時間だ。
もしかしたら、返事がない事を不審に思って無駄に心配させたかもしれない上に、ベッドまで運ばせてしまった事実に、はどう謝るべきか必死に考える。
なんとか文章を打ち込んで、何度か躊躇った後、覚悟を決めて送信ボタンを押した。
よろよろとベッドから降りてカーテンを開ければ、そこにはもうチェアはなく、グラスも片付けられている。
「…そう言えば、ご馳走さまって事は何か食べれたのかしら」
キッチンを覗けば、昨夜はなかった食器がいくつか見え、とりあえず何か口にして行った事はわかった。
それに少し安堵して、自分の準備に取り掛かる。
まずは顔を洗おうと洗面所に向かったは、鏡に映る自身を見て、目を瞬かせた。
「うん??…何かに刺され……、っ!?」
鎖骨と首筋に浮かぶそれに、は首を傾げかけたが正体を理解した瞬間、ぶわりと顔に熱が集まる。
咄嗟にそれを隠すように手で押さえ、ぐるぐると巡る思考の中で、いつ、どこで、とどう考えても無駄な事を自問する。
(どう考えても寝てる間だし、寝てたのは私だ!)
羞恥で半泣きになりながら自答して、押さえていた手をそっと離すが、そこにくっきりと残されたキスマークは消える事なく鎮座していた。
駆け込むようにしてウォークインクローゼットに入り、隠せる服装を漁る。
襟ぐりの浅いボートネックでは首筋が隠せないし、首まで覆うタートルネックは、手持ちの素材のものでは時期的にまだ早い。
仕方なくブラウスに腕を通したは、普段は一つ二つ開けているボタンを上まできっちり閉めて、痕が見えない事を確認すると、うぅ、と短く呻いた。
部屋に戻り、チカチカと着信を知らせているスマホに気付いて開けば、降谷からの苦言の並ぶメールで、ぐうの音も出ない。
しかし、なんとか抗議しようと文面を考えているに追い討ちをかけるように再びメールが届く。
[今度同じ事したら、キスマークじゃ済まさないからな]
真っ赤になって取り落としたスマホが床にぶつかる音が響いた。