小さく息を呑んだは、無意識に少し後退った。
おかえり、と口にしかけた言葉は音にならず、呼吸は浅くなる。
「ギル?」
恐る恐ると言うように名を呼ぶ声は震える。
射抜くような真紅。
漏れ出る覇気は肌を刺し、様子がおかしい事がありありとわかる。
感じた事のない畏怖に、零れそうになる悲鳴を咄嗟に噛み殺すを捕えるように鎖が飛んだ。
「なっ、やっ!」
手首に絡まった鎖に、目を見開いたは床に引き倒される。
打ち付けた痛みを堪えながら、上体を起こし、靴音を鳴らして近付いて来るギルガメッシュを見上げた。
「ギル、何が…」
困惑と少しの怯えが滲む声にも表情を動かさず、伸びて来た手に、は身をすくめる。
「王様」
後ろからかけられた声に、ギルガメッシュが動きを止めた。
ぎらりとそちらを向く真紅を受けるのは、真剣な表情で見据える二対の目。
「王様、さんから離れて」
立香が言えば、真紅が更に怒りの色を帯びるが、藤丸が一歩前に出る。
「令呪は使いたくない。その状態で、さんには近付かないで。お願いだ」
恐れもなく、はっきりと告げられた言葉に真紅が細められたかと思うと、ちらりとを一瞥して、ギルガメッシュは姿を消した。
「さん」
縛る鎖は消えたものの、その場に座り込んだまま動けずにいるに、慌てて立香が駆け寄る。
「っ、立香…どうなってるの?あれは…」
「ごめん、私も説明できない」
小さく震える手を握って、立香も顔を曇らせる。
「…シミュレーターが終わった後から、何か変なんだ」
「あれは…ギルだけど…ギルじゃ、ない……」
「うん…」
戸惑ったように言うは酷く混乱しているようで、立香は赤くなっている手首を労わるように、そっと手を当てた。
途端、ピピッと電子音が響いて、映像が繋がる。
「ダ・ヴィンチちゃん?」
『やっほー、皆お揃いだね?色々わかったから、ちょーっと管制室まで来てくれるかな?』
三人は顔を見合わせて、ダ・ヴィンチに頷いた。
「霊基の、軋み?」
目を丸くすれば、うんうんと頷かれる。
「軋みと言うか、歪みと言うか。簡単に言うと、風邪みたいなもんかな」
「いや、あの状況を風邪とかそんな軽いもんに例えないでよ」
めっちゃ怖い、と立香がごちれば、ダ・ヴィンチが苦笑いした。
「んー、じゃあ、ちょっとしたウィルスに感染して、軽い狂化状態って感じ?」
「ますますダメなやつ!!」
「完全な変質を来すほどではないけど、何らかの原因で霊基が歪んでるんだよねぇ…」
困ったなー、と軽く言うダ・ヴィンチの様子に、少し楽しんではいないかと不安になる。
不信な視線を受けて、肩をすくめたダ・ヴィンチはを見た。
「まあでも、まずちゃんのとこに行ったのは相変わらずだ。そこは変わってない」
「え、あ、うん?」
微妙な表情を浮かべるの横で、藤丸が眉間に皺を寄せる。
「でも、怪我させていい理由にはならない」
「? そこは気にしてないわ」
渋い顔で言う藤丸に、がなんでもないように言えば、藤丸の目が吊り上がった。
「怒るとこだからね!?」
「ご、ごめんなさい?」
咄嗟に謝るが、藤丸からの厳しい目は揺るがず、はそっと視線をそらした。
「まあ、どうなるかわかんないし…とりあえずさんはマシュのとこにでも」
「あの状態のギルを一人にはできないわ」
見上げて来る立香にゆるりと首を振ったが言えば、ダ・ヴィンチも眉尻を下げた。
「とは言っても…、今の彼は、賢王であって賢王ではないよ?」
「それでも…ギルはギルなんでしょう?」
真っ直ぐにダ・ヴィンチを見たは続ける。
「あぁなった原因が、霊基の歪みなら…きっと本人が一番不快に感じてるはず。だからこそ、苛立ちもする。いざとなれば、止められる人間が近くにいた方が良い」
「確かに止めれるとしたらさんだけど、いやでも…」
「完全に止めれるとは思ってないわよ?ギルだもの。でも、血を見れば多少は落ち着くでしょう。その後はマスターである貴方達に任せるわ」
「だから、そう言う自己犠牲いらないから!」
あぁもう! と頭を掻き毟る藤丸に、は困ったように苦笑した。
気配を辿ってたどり着いた部屋。
ギルガメッシュにあてがわれたものの、ほとんど使われていなかったそこ。
ぶつけられた覇気を思い出して少し躊躇うが、一つ息を吐いたは扉を開いた。
「ギル」
「……」
暗がりに薄く光る目に、はそっと呼びかける。
何も言わず、じっと見て来るそれを見返して、部屋に一歩踏み込んだ。
「近寄るでない」
声と共に、行く手を遮るように床に刺さった鎖。
思わず足を止めたは、困ったように軽く目を伏せるが、拒絶の中にも少しの疲労を感じ取って、鎖を避けて更に近寄った。
警告を無視したに対し、明らかな怒りを滲ませるギルガメッシュの目を真っ直ぐに見る。
「ギル」
ただベッドに腰掛けて微動だにしないギルガメッシュの前に立ち、少し震える手を伸ばして、そっと肩に触れる。
そして、そのままギルガメッシュに腕を回し、緩く抱えた頭に顔を寄せた。
振り払われる事も覚悟していたが、その様子はない。
だが、抱き返す腕もない。
「ごめんなさい、側にいなくて」
「……少し黙れ」
ギルガメッシュの呟きに、は大人しく沈黙で返した。
小さく聞こえる互いの心音。
その音に目を伏せ、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、するすると髪を梳く。
しばらくすると、ギルガメッシュが口を開いた。
「して、原因は」
「霊基に歪みが見えるって。でも、何故そうなったかはまだ…」
言えば、身動いだギルガメッシュに、動きを邪魔しないよう離れかけたは、腰を引き寄せられて、膝に座らされる。
視界の端で、粘土板が喚ばれるのが見えたかと思うと、ギルガメッシュの目がすっと細まった。
「本質の問題であったか…。ならば、修正すれば良い話だな」
言うが早いか、魔力が溢れ、風が一瞬にして広がる。
目を丸くしていれば、ぽいっと粘土板が投げ捨てられ消えて行く。
やれやれと首を振って、髪をくしゃりとかき上げたギルガメッシュが深い息を吐いた。
先程までとは打って変わって、いつもと変わらぬ気配に、は確かめるようにギルガメッシュの頬に手を伸ばす。
触れれば、ゆったりと真紅が細められたかと思うと、少し眉間に皺が寄った。
「痛むか?」
そっと手を取られ、鎖の痕が残る手首をなぞられる。
「大丈夫よ」
ほっとしたように表情を緩めて、は答えた。
何度も何度も痕を這う指に、くすくすと笑う。
「くすぐったいわ」
逆の手でその手を捕え、動作を止めれば、少し不服そうにされる。
軽く首を傾げて、は眉尻を下げた。
「…よもや加減すら出来ぬとはな」
「別に私は気にしてない」
苦虫を噛み潰したような顔で言ったギルガメッシュが、じっと痕を眺めたかと思うと、の手をぎゅっと握る。
「魔術のみとしておる我があれを使えたと言う事は、少々若僧の我が混じったか」
「それはそれで怖いわね…」
思わず呟いたの額に口付けを落としたギルガメッシュは、再度深々と息を吐いた。
を膝から降ろしたかと思うと、今度は自分がそこに頭を預ける。
「我は疲れた。少し眠る」
「えぇ」
言うなり、目を閉じてしまったギルガメッシュに苦笑して、はそっと髪を撫でた。
「お邪魔します…」
できるだけ音を立てぬよう、そっと覗いた先。
囁くような声に顔を上げたが、ふわりと笑って、人差し指を口元に立てた。
「あ、ここだった」
「さん、王様はどう?」
一つ頷いて、潜めた声で問いながら部屋に踏み込む。
極力灯りが落とされた室内は薄暗く、の膝に寝転がるギルガメッシュの表情は見えない。
抜き足差し足、そっと近付けば、小さく寝息を立てているのが確認できた。
「歪みがあるって伝えたら、自分であっと言う間に治してしまったわ」
「わぁ…、相変わらずチートだな…」
「…ほんとに」
立香が呟き、呆然と藤丸が同意するのを見て、が微笑う。
「とりあえず、解決したってダ・ヴィンチちゃんに報告しておくね」
「お願い。ただ、原因の解明はした方が良いと思うけど」
了解、と敬礼して、立香と藤丸はそそくさと部屋を出て行った。
「雑種か」
聞こえてきた声に視線を下ろせば、ゆっくりと目が開かれる。
「心配だったのよ」
「…令呪をチラつかせ、我を脅しておいてよく言う」
ふんと鼻を鳴らすギルガメッシュに、困ったような顔でさらりと前髪を払えば、その手を取られた。
指先に口付けられて、は首を傾げる。
「ギル?」
声を掛けるが、無言のままギルガメッシュはまた鎖の痕をなぞりだす。
自身に向けての怒りなのか、深くなる眉間の皺には小さく息を吐いた。
いくら気にしていないと伝えても、納得はしてもらえないらしい。
「ねぇ、ギル」
そっと呼び掛ければ、真紅がこちらを向く。
その深い瞳を見返して、は淡く笑う。
「痛くなかったと言えば嘘になるわ。でも、だからと言って貴方から離れたり、恨む事なんて有り得ない」
「……」
「帰って来てくれて、ありがとう」
の言葉に、少し目を見張ったギルガメッシュはその頬に手を伸ばした。
柔らかく触れた指に、が緩やかに目を細める。
すっと首をもたげたギルガメッシュはの頭を引き寄せ、唇に己のそれを重ねた。
「ただいま。王様もう元に戻ってたよ…」
「ダ・ヴィンチちゃん、何かわかった?」
管制室に戻った立香と藤丸は、画面を睨んでいるダ・ヴィンチの側に行く。
首だけで振り返ったダ・ヴィンチの顔はなんとも言えない笑みを浮かべていた。
「んー…まだ断定には至ってないんだけど、予測はついてるかな」
「ほほう?」
聞く体勢に入った二人に、ダ・ヴィンチも完全に向き直って内緒話をするように声を潜める。
「ちゃんの影響、だと思うよ」
「え゛?」
「ギルガメッシュ王の魔力を取り込んで、ますます力を付けてるからね。王に還元される量も増えてるだろう。それが霊基のバランスを崩した、と私は見ている。すぐに彼女の所に行ったのも、無意識に歪みを補完しようとしたんじゃないかな」
ダ・ヴィンチの推測に、あんぐりと口を開けた立香がゆっくりと瞬きをする。
「…えっと、それ、ちょっと離れて過ごせ的な?」
「そんな事、了承すると思うかい?すでに変質は修正されてたんだろう?王の事だ、たぶん、もう対策は立ててるはずさ」
肩をすくめたダ・ヴィンチは、ほんと敵わないよ、と微笑った。